軽井沢が「屋根のない病院」と呼ばれる理由

2016年5月13日
0 Comments

軽井沢 緑
避暑地である軽井沢は、別名「屋根のない病院」という呼び名があります。標高は約1000m。8月でも平均気温は20.5℃と東京と比べて5.5℃も低い。夏でも涼しく、別荘地特有のたっぷりの緑も出迎えてくれる。何日か滞在している間に「体が驚くほどスッキリした」そんな経験のある人も多いのではないでしょうか?
でもいつからこの呼び名が定着したのでしょう?それは過去の2つのエピソードが関係しています。

 

2つのエピソードとは?

一つは、軽井沢を世界に広めた第一人者、カナダ人宣教師のA.C ショーがこう呼んだのがきっかけ。
1886年にキリスト教の布教と、自身のリウマチ療養のため初めて軽井沢を訪れます。本当に偶然、東京のうだるような暑さから逃れるため旅をしていたら行き着いたそう。たっぷりの緑と涼しい空気、そして広がる景色……祖国スコットランドに似ていたことも大きく、すっかりリフレッシュしたようです。以降、旧軽井沢の大塚山に生涯の別荘を建てることになります。
これを機に軽井沢は世界に広まるわけですが、それまでさびれた宿場町でしかなかったこの場所を、避暑地として発掘してくれた功績は大きいですよね。
 
もう一つは、かつて結核の療養所があったこと。
場所は万平ホテルの裏手から矢ヶ崎川に沿って広がる一帯です。時期は1920年頃。当時の結核は不治の病。療養のため全国の結核患者を軽井沢に集めていたと言われています。
戦前に『軽井沢避暑団』という別荘族の自治組織が設立され、そこが運営する病院にイギリス人のマンローという医師が招かれ医療に尽力したエピソードが残されています。
今はもう跡地となってしまいましたが、通りは『サナトリウムレーン』という小さな観光名所として残り今でも訪れることができます。
「軽井沢に来れば病気が完治する」という医学的な根拠はありません。それでもこの2つのエピソードは、軽井沢が癒しを与える特別な場所だということを示していると思います。
 
ちなみに、作家の堀辰雄も妻とともに結核を患い療養所で過ごし、著作『風立ちぬ』の中でも妻との闘病シーンが描かれています。治ることはなく48歳でこの世を去りますが、その間に多くの作品を残したことを考えると、軽井沢で過ごした時間はきっと特別なものだったのではないでしょうか。