浅間山の歴史について調べてみた

2015年12月14日
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軽井沢 浅間山
軽井沢の北に雄大そびえる浅間山。東京に住んでいた頃はその存在を全く知りませんでした。しかし軽井沢町民で知らない人はまずいない有名な山。先日、雪が降ったときは「初冠雪を記録しました!」とニュースやラジオで賑わっていましたし、この仕事をしていると「浅間山を一望できる絶景ポイントの土地はどこか?」など良く聞かれたりするほど。
となりの御代田町や小諸市、群馬県まで広げてみても知名度は高い。なぜここまで有名なのか?気になったので調べてみました。美しいだけでなく、どうやら「活火山」の歴史が大きく噛んでいるようです…

浅間山って?

標高は約2500m。群馬県と軽井沢町と御代田町の境目にドンと位置しています。写真ではちょっと雪に隠れてしまって見えませんが、南側にゴロッと削り取られたカルデラがなんともワイルド。実際のサイズよりかなり大きく感じる存在感があります。
このカルデラが物語るように、ポイントは「噴火の歴史」。遡ること古墳時代の4世紀。そして平安時代の1108年、そして江戸時代の1783年です。小さな噴火も絶えず繰り返してきた荒くれ者ですが、代表的なものはこの3つの大噴火。

江戸時代の大噴火

中でも江戸時代(1783年)の噴火は、溶岩流や火砕流が浅間山の北に位置する群馬県側に流れて大きな被害を出したといわれています。範囲は50km以上も先の吾妻川まで。その影響で川の氾濫が起こり約1500名の尊き命をが失われました。軽井沢や御代田エリアではこの大噴火での噴石により1名の方が亡くなりました。ちなみに、浅間山の北側、群馬県嬬恋村の名所「鬼押し出し」はこの時の溶岩が堆積して固まったもの。「幅2km、長さ5kmにわたって流下した」という記録も残されています。また、この噴火による影響は直接的な被害にとどまらず、北関東や東北を中心とする降灰や日射量の低下で農作物の収穫に深刻な被害をもたらし、天明の大飢饉が起こることになりました。天明の大飢饉は日本の近世では最大の飢饉で、その影響による疫病も含めると数年で92万人の人口減を招いたようです
浅間山の大噴火の周期は700〜800年と言われているので、現在大規模な噴火の可能性はかなり低いです。それでも火山活動は続いており、最近でも噴煙が立ち上ってニュースになりました。警戒レベルは「1」から入山規制のある「2」に引き上げられたりと、火山活動の動きはありますが、もし噴火したらどのような行動にするのか等、日頃から備えながら過ごすことが良いと思います。

やっぱり美しい!

昔から人々の引いてきた浅間山。それでも最初にご紹介したように人気は相当なものです。絶景のロケーションの別荘や土地はすぐに売れてしまいます。
季節ごとに様々な表情を見せてくれ、夏の深緑、秋の紅葉、冬は真っ白な雪化粧….散策中や、車や電車の窓など、いろんなシチュエーションでその姿を望むことができます。室生犀星や堀辰雄など、軽井沢にゆかりのある作家の世界にもたびたび描かれています。ちなみに軽井沢では、「浅間山に3度冠雪すると、麓にも雪が降る」と言われているそうな。